8神の律法を理解できないユダヤ人

現世に生きていらっしやる皆様の考え方と、聖書の根本原理とは次元が違うのです。皆様がどんな宗教を勉強なさっても、ただの人間の概念にすぎないのです。

この世を去ってしまいますと、そういう概念は一切役に立ちません。キリスト教へ二十年、三十年行っているとしても、仏教を三十年、四十年勉強しても、それは現世の人間が現世の宗教を勉強しているのであって、絶対者の領域に入ったことにはならないのです。ここに聖書の本当の絶対性があるのです。

聖書の真髄を捉えることは、なかなか難しいのです。例えばローマ人への手紙に「肉の思いは死であるが、霊の思いは、命と平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(867)とあります。

神の律法はユダヤ人が実行しているモーセの律法をさすのですけれど、東洋人から考えますと律法が分からないのです。ユダヤ人が分かっているつもりでいますけれど分かっていないのです。

タルムードがモーセの提の解釈になっていますけれど、ユダヤ民族が本当の意味で人間の学問や宗教、常識の中には、本当のものはありません。本当のことをつきとめて頂きたいのです。肉の思いは死です。人間のすべての思いは、人間が死んでいくための思いです。

死ぬのは眠るようなことですから、それほど恐ろしくないと思えるのです。「世の中に眠るほど楽なるものをこの世の馬鹿は生きて働く」と言う十返舎一九の狂歌があります。死んだ方がらくだと言うことになるのです。ところがそうはいかない。死んだ後に恐ろしいものが待っているからです。人間としてこの世に生れてきたことの因縁、原因が分からないから、そう考えるのです。

釈尊以外の東洋人は、全部生きている自分を認めているのです。釈尊でさえも、最初は自分が生きていると思っていたのです。ところが、ある時、葬式に巡り合ったときに、人間が死ぬということを見せられて、非常に驚き、困惑したのです。これが生老病死を探求する原因になったのです。

生老病死とは何でしょうか。釈尊は生まれたこと、生きていること、年老いて、病気になって死んでいくという四つの苦しみに当面しました。これを解脱するために、バラモン教で非常に苦労した。七年間の難行苦行をしたのです。

ところが、いくら難行苦行をしてもだめだったのです。なぜだめかと言いますと、自分が生きているという建て前で、自分が苦労をしているのです。自分が修行をするとどうなるかといいますと、修行をした自分が自分の魂をだますのです。

例えば宗教の学校へ行くとします。宗教を勉強します。そしてどうなるかと言いますと、自分が宗教の勉強をして、勉強したと言う自分の概念で自分を騙していますから始末が悪いのです。

皆様は数十年の人生経験をお持ちですが、この人生経験によって皆様自身を騙しているのです。学問をするとその学問のために、自分が騙されるのです。学問が本当であると思いこんでいるからです。

人間存在の本質は、過去世、現世、来世と三世によってできています。ところが三世にわたる人間の捉え方ができないのです。生まれる前の自分がありました。生まれる前の人の本性が肉体を持っている状態を霊魂といいます。この世に生きている期間がすぎますと、この世を去ることになります。この世を去った後にどうなるか。現世では何をしていたのか。どんな生活をしていたのか。自分の命をどのように捉えてきたかが、絶対者によって審判されるのです。

肉の思いは神に逆らっている。これが人間自身に分からないのです。肉の思いというのは、肉体人間としての自分がいると言う思想です。地球が実在しているという思想です。現象世界がある。自分がいると言う思いが中心になって、宗教や学問ができています。勉強したことが、私達の手足を縛っている。自分自身を縛っているのです。学問がない人は、現世に生きている現実が、その人の概念になっています。現実があると思いこまされている。これが肉の思いです。これを乗り越えるためには、情熱又は切願がいるのです。

よほどたくましい根性で、とことんつきとめてやろうという強靭な忍耐力と執念深さがいるのです。釈尊はそれを持っていたのです。

とうとう彼は、一見明星で大変なことを発見したのです。現在の世界があること、自分が生きていることが根本的に空であるという、絶大な悟りを与えられたのです。そして、本来の世界は人間では考えられない黄金浄土であることを発見したのです。

人間は現在、黄金浄土に生きているけれど、それが全く分かっていない。釈尊はそれが分かってびっくりしたのです。これが空即是色の世界です。色即是空、人間の考え方、見方は皆間違っているけれど、森羅万象は澄明無類の黄金浄土です。これをどのように人々に説明したらよいか苦慮したのです。


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