9ユダヤ人はなぜ間違えたのか

ユダヤ人が神の約束を受けとめてから二千年もたっていたのです。モーセに指導されてからでも千五百年ほどたっていました。それでも分からなかったのです。

掟は行えば行うほどわからなくなるのです。なぜそうなるかといいますと、太陽系宇宙の存在に対して、基本的な認識がまちがっているからです。創世記の第一章に関して、正確な認識ができていないのです。

物理的なエネルギーが働いて現象世界が構造されています。現在の学問では質量とは何なのか、エネルギーとは何かが分かっていないのです。ァィンシュタインはそれを説明したつもりなのですが、質量やエネルギーがあることを前提にして推論しているのです。前提にしてということは仮定してということなのです。

例えば時間があることを仮定していますが、時間とは何であるか。時間がどこにあるかを説明していないのです。時間があることの証明がアインシュタインにはできていないのです。時間の正体が捉えられていないままで、時間と空間の相関関係を説明している。これが相対性理論です。こういう見方がまちがっているのです。

アインシュタインは虹がいつできたのか、どうしてできたのか分からなかったのです。聖書を信じるしか仕方がないと言っているのです。創世記によれば、虹はノアの洪水の後に発生したと書いてあります。それを信じるしかしかたがないと、アインシュタインは言っているのです。ある部分では聖書を信じることを告白していながら、他の部分では聖書がいう所を信じていない。こういう不明瞭な立場に立っているのです。霊と肉の両方に立とうとしている。こういう不安定な考え方が、現代人の常識の基礎になっているのです。

相対性理論は最も偉大な真理のように考えられていますが、神から見れば幼稚な理論になるのです。私は科学を否定するのではありません。科学なりの合理性と価値を持っているとは思いますが、それを絶対真理、最高の真理のように考えるのが間違っているのです。

ノーベル委員会がいくら世界一の学説だと認めたとしても、ノーベル委員会が神を認めていないのです。ノーベル賞によって表彰された学理学説が、神的な正確さを持っているとは、絶対に言えないのです。イエスの復活の説明ができないようでは、新約時代の原理に立って物を言うのでなかったら、永遠の真理とはいえないのです。

現代文明は命が分かっていません。時間でさえも分かっていないのですから、命が分かるはずがないのです。私達は毎日、時間に接触していますが、時間の本質が分からないのです。

神学は人間の常識を基礎にして考えています。現実に肉体的に生きている人間の常識、社会通念を踏まえて考えている。これが宗教です。又科学です。宗教も科学も人間の常識、通念を踏まえて考えているのです。

イエスは常識を踏まえていませんでした。イエスを主とする人は、常識を信じてはならないのです。イエスは常識の外に立っていたのです。日本の宗教家や学者で、常識の外に立っている人は一人もいません。だから時間が分かっている人は日本にはいないのです。アインシュタインでも分からなかったのです。ましてや日本の科学者では、時間の説明ができる人はいないでしょう。

命とは何かと言いますと、存在することです。地球が存在することが命です。人間が存在すること、森羅万象が存在することです。存在することが命です。時間とか空間は、存在するかしないかという問題なのです。時間が存在の原理に一致するようなものであるかどうか。物質が存在の原理に一致するかどうかです。

存在するということは、生きていることを意味するのです。時間空間的な観念に立っていえば、命が存在するのです。存在が命になるのです。見方によって言い方が変わりますが、実は一つのものなのです。命が分かっていれば、時間の説明ができるのです。時間が「ある」のです。「ある」と言うことが分かっていれば、時間の本質が説明できるはずです。

命の本質は、まじめさがあれば必ず分かるに違いないのです。イエスはユダヤ人に発言した時に、ユダヤ人はこれを知るべきであったし、心を開けば分かったのです。

生きていると言う状態を冷静に考えれば、イエスの言うことが分かるのです。私はイエスの受け売りをしているだけなのです。

イエスが復活したことによって、存在と命の原理を宇宙的に確証したのです。パウロは次のように言っています。「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、皆悔い改めなければならないことを命じておられる。神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれを成し遂げようとされている。すなわち、この方を死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝173931)。

神は全世界の人に、悔い改めを命じているのです。日本人が聖書を認めようが認めまいが、神は神です。創造者、絶対者という権威において、皆様方に悔い改めを命令しているのです。それに従わなければ、神に従わないことになるのです。

皆様が現在生きていらっしやる命は、必ず死ぬ命です。それをよくご承知でいながら、その命を棚上げすることができないのです。その理由は何かと言いますと、自分の命に絶対的な価値があると思ってみえるからです。それが間違っているのです。

皆様方のご自分の世界観や人生観を信じておいでになっても、何にもなりません。たとえばキリスト教を信じておいでになっても、何になるのでしょうか。ご利益があるかもしれませんが、ご利益の本体は何でしょうか。

ノーベル賞に何の価値があるのでしょうか。湯川秀樹さんはノーベル賞をもらいましたが、死んでしまいました。死んだことは負けたことです。パウロは私は勝ってあまりあるといっています。勝ちすぎて困るくらいだといっているのです。

人生は終極的に、勝つことが目的です。死に勝つのです。死ぬべき運命に勝つのです。

宗教も学問も、全部人間の常識、社会通念の上に立っています。聖書はこれを肉の思いといっています。常識や社会通念の上に立って考えれば、必ず死ぬのです。必ず死ぬと言うことを、よくよくお考え頂きたいのです。

大宇宙の本体は永遠の生命です。これが地球では物理的に表現されているのです。百五十億年の広がりを持つ宇領の中で、生命現象が確実に存在しているのは地球だけです。SFの世界では、地球のような惑星が他にもあるといいますが、それは御伽噺です。

常識や社会通念はこの世に生きている間は通用しますが、この世を去ってしまえば一通用しません。キリスト教の教義は現世では通用しますが、神の国では絶対に通用しません。神の国で通用する命を探求して頂きたいのです。


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