13ユダヤ人に壟断された文明

旧約聖書は神がユダヤ人に与えた約束です。新約聖書は神が全人類に与えた約束です。旧約と新約の両方を合わせて、六十六巻になります。聖書を宗教的に学ぶと神を自由に学ぶことができないのです。

私がお話ししているのは人間がつくった宗教概念ではなくて、人間を造った神なのです。人間がつくった神と、人間を造った神とどう違うかといいますと、神が人間を造ったとすれば、神が造ったという印がどこかになければならないのです。その印は何かといいますと、人間自身の命がそのまま神を現しているのです。これが宗教ではない神の考え方です。

生長の家の人々も神が人間の内にあるといいます。人間の内にどのように神があるか。どういう形であるのか。生きているとはどういうことか。命とは何か。何のために人間の命が発生したのかと聞いても、分からないといいます。

人間の命が発生したのは目的があるにきまっているのです。これがはっきりいえないのは、神の考え方がまちがっているからです。

神は不思議な文字であって、示し申すとあります。何を示し申しているか分からないのです。生長の家の人々は生長の家のような解釈をするのです。キリスト教の信者はキリスト教のような解釈をするのです。八百万の神々といって、皆勝手な解釈をしているのです。

命の本質を弁えないで、何のために地球が存在するかという厳格な、しかも全世界に通用するような考え方に基づいて、はっきり命の実質と神の関係が、明確に論じられなければならないのです。神と人間との関係が明確に論じられることになりますと、ユダヤ人問題についての説明もはっきりできなければならないのです。これが生長の家ではできません。ユダヤ人問題が説明できないようでは、本当の神を信じているとはいえないのです。

文明の実態はユダヤ人に牛耳られています。なぜ牛耳られているかといいますと、イエスがキリストであることに反対しているからです。イエス・キリストの復活を認めたくないのです。ユダヤ人が中心となる世界を実現する。いわゆる世界革命をねらっているのです。

ユダヤ人はすばらしいのですが、思想が悪いのです。ユダヤ的にしか神を見ることができないのです。ある宗派を信じている人は、その宗派の立場からしかキリストを見ることができない。それが間違っているのです。

本当のキリストを知りたければ、自由に考えなければだめです。神というのは、人間の命の本源ですから、自分自身の命を良く見れば神がわかるのです。

新約聖書に神は霊であるから、拝する人は霊と誠を持って拝しなさいというイエスの言葉があります。これが分からないのです。霊なる神とはどんな神であるか。聖霊降臨という事件が聖書にありますが、これを勉強しなければいけないのです。

人間が本当に信用できるのは、歴史的事実において現れている神の絶対だけです。これがイエス・キリストの復活です。イエス・キリストが死を破ったということは、歴史的実態です。作り事ではありません。これだけが本当に信用できることです。

ユダヤ人が世界をひっかき回しているのは、イエス・キリストを信じなくて、ユダヤ人を中心にした世界を構成したいと思っているからです。これがユダヤ教の悪さです。

宗教が悪いものだということは、ユダヤ人が見本を見せているのです。スケールが大きいので、ユダヤ人が自分達の宗教意識を世界全体にばらまいていて、文明がまさかユダヤ教のアイデアによるものだとは考えられないのです。

文明を信じている気持ちが、宗教観念になるのです。本当のことを考えさせないような文明構造になっているのです。本当のこと知ろうと思ったら、文明意識を否定しなければならないのです。


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