14ユダヤ人が回復すれば世界は一変する

ユダヤ人は神に祈ることを知らないし、神を信じることを知らないのです。ユダヤ人以外の民族は、まがりなりにもそれを知っているのです。ユダヤ人だけが知らないのです。ユダヤ人が祈ることが分かりさえすれば、キリストの福音は世界中に広がるのです。彼らは四千年も前から、祈ることを全然知らないのです。日本人も知らなかったのですが、明治以後、何となく分かってきたのです。

ユダヤ人がキリストの復活を理解すれば、命の根本がどういうものかが、世界中の人に分かるのです。信じること、祈ることが分からないのは、ユダヤ人だけです。ところが彼らは、信じること、祈ることの本家本元だと思っているのです。

ユダヤ教とキリスト教は、祈ること、信じることが全然分からないのです。世界中の人々がキリストの福音が分からない原因は、ユダヤ人が間違えているからです。

問題はユダヤ人です。彼らが神に祈ることが分かれば、世界は一変します。政治も経済、社会の状態も、全部変わってしまいます。

聖書に「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすればあけてもらえるであろう」(マタイによる福音書77)とあります。求めよといっていますが、何を求めよとは言っていません。ただ闇雲に求めよといっているのです。何をどのように求めたらいいのか全然書いていない。ただ、求めよ、捜せ、門をたたけといっているのです。求めることの中に、答えが隠れているのです。

求め方が正しいかどうかが、一番問題になるのです。もし正しく求めていたら、必ず与えられるはずです。求めるとはどうすることか。これは何十年も聖書を勉強している人でも正確には分からないのですが、聖書を勉強し初めたばかりの人でも、自分の本心を言えば分かるのです。

日本のキリスト教の中で最も有名であった内村鑑三が、求めることが分かっていな

かったのです。

与えられるという言い方をイエスが言っている所を見ますと、適確に、実証的に、具体的に、自分がはっきり承知ができて、手ごたえがあるような形で与えられることを言っているのです。そのような求め方をしなさいとイエスが言っているのです。

自分に手ごたえがある与えられ方をするために、どうすれば言いか。正しくて確かなことを条件に求めていきますと、命の実物が分かってくるのです。イエスは命ということを言っていませんが、求めよ、そうすれば与えられるという言葉の中に、命が入っているのです。

本当に求めている人は、宗教では満足できないでしょう。宗教の指導者で本当に求めている人はありません。その証拠に、彼らは宗教に満足しているからです。

日本の宗教家は本当に求めていなかったのです。ところが親鸞はそうではなかったのです。その心境が歎異抄によく現れているのです。親鸞は、女性が好きでたまらなかったのです。なぜ女性が好きなのか。仏教の教義では、女性を好きになってはいけないといいますが、親鸞は、女性が好きで好きでたまらなかったのです。どんな行をしても、その気持ちを抑えることができなかったのです。そこで川越の道場を捨てて、京都に行って乞食をしていたのです。これが親鸞の本当の姿です。

親鸞は浄土真宗を捨てた男です。本願寺で崇めている親鸞は、浄土真宗をつくった親鷲です。本当の親鷲は浄土真宗を捨てたのです。六十三歳から九十歳の間、親鸞は浄土真宗を捨ててしまったのです。ところが浄土真宗では、親鸞は偉いと拝んでいる。捨てられた人々が、親鸞を拝んでいるのです。

親鷲は宗教を捨てたのです。自分をごまかすことができなかったからです。日蓮はごまかしていましたが、親鸞はごまかせなかったのです。

釈尊も宗教に満足できなかった。そこで宗教を捨てたのです。自分の人生に満足できる人はだめです。イエス・キリストの信仰でなかったら満足できない人になるのです。

人間が生きているということは、機能性です。生かされているのです。神に生かされているという機能性が、今私達の人生経験になっています。私達は生かされているということを、経験しているのです。人間という立場で神の命を経験させられていますけれど、これは人間一人ひとりの命ではないのです。一人ひとりというあり方で、経験させられているだけなのです。

ひとつの命をたくさんの人が経験させられているのです。世界に命はひとつしかありません。それをたくさんの人が経験させられているのです。ところが自分が生きていると考えるから、自分が救われたいと思ってしまうのです。

親鸞の場合で言えば、女性が好きであったということを、親鸞が経験しているのです。法然でも日蓮でも女性が好きであったに違いないのですが、女性が好きではない様な顔をしていただけなのです。女性が好きであるということほど素朴に大胆に、率直に命のあり方を示しているものはないのです。

親鷲の正直さは実に見上げた立派なものです。親鸞は人間の本能が何であるか分からなかったのです。恥ずかしいことだと考えていたのです。親鷲の命に対する見方が間違っていたのです。女性が何を求めているか、その真意を親鸞はよく理解していなかったのです。女性が本当に求めているものに答えられるように女性が本当に好きでたまらないのならいいのです。

女性が好きになるというのは、宇宙の本能です。地球の本然性なのです。地球の本然性が人間になって現れているのです。性の問題と食の問題は、地球自体の本然なのですこれは前世からの問題です。前世から現世に続いている問題です。性のことは誰に教えられなくても皆知っているということが、前世からの問題であることを示しているのです。これほど尊いすばらしいことはないのです。

ところが、この間題を一番恥ずかしいことだと考えている。これが文明の誤りの一番大きい問題です。

人間の本能性ということは魂の本性ということです。文明は魂の本性を恥ずかしいことだと考えている。これが悪魔の性格なのです。悪魔は現世の生活を尊ぶのです。現世での人の噂、評判を気にするのです。

男女の問題がはっきりしなければ、永遠の生命は分かるはずがないのです。親鸞のように女性が好きでたまらない人間でなかったら、霊のことは分かるはずがないのです。

日蓮は現世のことばかりを考えていました。日本の国をどうするかとか、政治がいいか悪いかばかりを考えていたのです。日蓮の教えは現世受けはしますが、前世、永遠の命が全然分からなかったのです。

生きているというのは、前世からの問題です。人間の精神状態は、昨日があって今日がある。今日があって明日があるのです。昨日、今日、明日を考えなければ、生活は成立しないのです。過去、現在、未来を考えなければ、生活は成立しないのです。これはそのまま皆様の生命構造を現しているのです。

精神構造と生命構造は同じものです。皆様の生命構造には生まれる前がありました。そして現在があり、死んだ後もあります。過去生と現生と来生があるのです。精神的に過去、現在、/未来があるように、生命的にも過去、現在、未来があるのです。精神的なものがあれば、生命的なものがあるにきまっているのです。命の問題、性の問題、本能の問題は、過去、現在、未来につながっているのです。これが分からない人は、永遠の生命を捉えることができないのです。

旧約聖書の創世記の二章に、女性の実体を骨の骨と書いています。アダムという男性のあばら骨を一本取り出して、女性を造ったのです。これにはとても深い論理展開を必要としますが、明らかにしていきたいと思います。

骨というのは霊のことです。聖書で言う霊というのは新興宗教で言う霊ではなくて、物事の本質、本体、実体という意味です。聖書で言う肉というのは、目に見える現象をさしています。骨は肉体で隠されていますが、骨がなければ肉体は成り立たないのです。筋肉も骨からできているのです。血となり肉となるというのは骨の働きを意味するのです。人間の肉体が正常に働いているのは、骨が正常に働いているからなのです。人間の純粋な精神構造を骨といっているのです。創世記の二章に詳しく書いてありますが、人祖アダムがぼんやりしていたために、神が全然分からなかったのです。そこでアダムを深く眠らせて、あばら骨を一本抜いて女性を造ったのです。これがエバです。

アダムの骨で造られた女性の姿は、骨の骨です。女性の美しさ、すばらしさ、色気が骨の骨です。女性の素質は骨ですが、女性の美しさは骨の骨です。

女性は男のハート、本性、真心です。女性は男の真髄です。男の真髄が女性になって、出ているのです。だから男は女性が好きでたまらないのは当たり前です。これはスケベではないのです。女性がとことん好きでなければ、命の真髄は分からないのです。

甘いものが好きな人は、なぜ甘いものが好きなのかを考えたらいいのです。酒が好きな人は、酒が好きという自分の気持ちを、じつと考えたらいいのです。本能的であろうが欲望的であろうが、それをじっくりと読んでいくのです。素朴に率直に読んでいくのです。そうするとその実体が聖書に書いてあるということが分かるのです。自分のあり方が聖書そのものであることが分かってくるのです。

本能性を肉の思いで見ないで、霊の思いでじっくり見ると、すばらしいものであることが分かるのです。女性を骨の骨として見るのです。

世間の男は女性に対する見方を間違えていますが、どのように間違えているかを理解しなければいけないのです。そして、霊の思いで見ることができなければいけないのです。両方わからなければいけないのです。

何もかも分かってしまうと人間は気楽になるのです。天地万物は皆神が造ったものです。それはことごとく神の言葉です。これを読んでいくのです。汚いものはひとつもありません。自分の心が汚いだけなのです。自分の心をきれいにすれば、汚いものはひとつもないのです。

「求めよ、そうすれば与えられる」。求めさえすれば、神はその心を知っていますから、その心に応じて与えられるに決まっているのです。霊的に求めなければ、霊的に与えられません。肉的に求めている人は、霊的に与えられないのです。

人間は普通常識的に生きています。常識的にきれいなものはきれいと思い、汚いものは汚いと考える。常識的に男と女を見ています。この感覚では与えられないのです。なぜなら、求めていることにはならないからです。

世間並みの感覚で、セックスを考えている。性と食を欲望と考えている。本能が欲望というはずはありません。本能は先天性です。先天性というのは、それがなければ死んでし事つという意味です。それがなければ人間は伝承しないのです。それが欲であるはずがないのです。

欲というのはそれをむやみに実行しないはうがいいという意味です。性と食が欲望であれば、欲望を満足させないほうがいいのです。もし食と性を実行しなければ、人類は絶滅してしまうのです。

本能性を欲望性と考えるのはなぜでしょうか。そういう間違った考えをしているのが常識です。お金をためるのは欲です。物欲、名誉欲、宗教欲は現世に生まれてからできたものです。これははっきり欲望です。先天性のものは本能ですが、後天性のものは欲望です。

求めよ、そうすれば与えられるという言葉をよく考えてみますと、人間は本質的なことについては無知であることが分かるのです。それを知りたいと思って求めれば、誰でも教えてもらえるのです。

例えば、本能性とは何か。欲とは何か。欲ではないとはどういうことか。道徳と欲望との関係はどうなるのか。信じることと行うことの関係はどうなるのか。自分が生きていることと神との関係はどうなるのか。こういうことを求めるとすべて与えられるのです。

私たちが生きているのは、自分が生きているのか、神が生きているのか分からないのです。自分が生きていると思っても、神が殺そうと思えば命はなくなってしまうのです。命といっても、自分の命であるのか、神の命であるのか分からないのです。求めるとこういうことがだんだん分かってくるのです。どこまでが自分の命か、どこまでが神の命かがわかってくるのです。自分の自由になる部分と、自由にならない部分と、どう違うのかが分かってくるのです。

求めれば、今まで生きてきた命について、自然について、地球存在について、分からないことをどんどん教えてくれるのです。

地球の主人公として知らねばならないことが、分かってくるのです。万物の霊長として知らねばならないことが知ることができると、イエス・キリストのように、命の本質を弁えることができるのです。

命の実質、実体をアスクするのです。そうすると、自分の命の実質が分かり、他人の命の実質が分かってくるのです。生きているうちに、天国が分かってくるのです。肉体の命がある間にアスクするのです。生きているということを尋ねるのです。求めて、求めて、尋ねるのです。そうすると教えられるのです。

最も有効なことは食と性です。これは一番分かりやすいのです。その奥に、命の問題、国の問題、天皇の問題が続いているのです。

日本国憲法に、天皇は日本国民統合の象徴であると書いています。又、日本国の象徴でもあるのです。国のシンボルであり、国民統合のシンボルなのです。国民統合とは一体どういうことか。人格の統合はどういうことかです。

この秘密が新約聖書に出ています。新約聖書には、人類の統合がイエスであると書いています。これがイエスが主であるという意味です。人間は統合されるべきですが、そのシンボルがキリストです。キリストは人間と万物の統合を意味するのです。

天皇は日本国民の統合のシンボルですが、キリストは人類統合のシンボルです。天皇はキリストの影になるのです。これは世界歴史の中のとても深い秘密なのですが、やがてこれが明らかにされる時が来るでしょう。

人類が生きているのは、キリストの現象体として生きているのです。現在生きている皆様は、統合されなければならない。融合されなければ、生きている意味が全くないのです。個々の人間がばらばらに生きていても、ただ死ぬだけです。悪魔の餌食になるだけです。

聖書に書いています。「あなた方は死んだものであって、あなた方の命はキリストと共に神の内にかくれている」。私達の命がキリストに統合される時、初めて、永遠の命の実感を、しみじみと味わうことができるのです。


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