18エターナルとエバーラスティング

中途半端な考え方が一番いけないのです。人間は善と悪と二つあると考えています。こういう中途半端な考えをやめてしまうのです。一つのものが二つに見えるだけです。二つのものは元来一つのものです。これが本当の神の見方です。

本当のことは一つしかありません。実は本当のことしかないのです。神と悪魔が二つあるという思いは、すべて不徹底から来ているのです。人間の考えが不徹底なのです。度胸をすえて見れば、一つになってしまうのです。そうなると悪魔の方が遠慮してしまうのです。ここまで行こうと思ったら聖書気違いにならなかったらいけないのです。

イエスから見ると、神も悪魔も同じようなものになるのです。イエスの前に悪魔が出てくると、悪魔が神になってしまうようなものです。悪魔が神に化けるのではありませんが、悪魔の方で逃げていくのです。そして神だけになってしまうのです。そういう事ですから、悪魔を決して恐れる必要はありません。

自分の肉の思いを恐れる必要はないのです。肉というのは聖書独特の言い方ですが、形があるもの、現象的物体を指します。肉の思いというのは現象的物体を実体とする考え方をいうのです。霊というのは地球を生かしている無形の力をいいます。自分の肉の思いをじっと見つめるのです。凝視するのです。見つめて見つめて、肉の思いが恥かしくなるほど見つめるのです。そうすると肉と思いが恥かしくなって消えてしまうのです。

肉の思いをなくして、霊の思いだけになろうとするからいけないのです。罪をなくそうとしてもだめです。罪をどんどん大きくしたらいいのです。罪を最大限に大きくすると罪だけになって、自分が生きている余地がなくなるのです。罪だけの自分になってしまうのです。そうすると自分が生きているのではない、悪魔が生きていることが分かるのです。

皆様は自分で生きていると思ってみえるかもしれませんが、現世に肉体的に生きている命は悪魔の命です。だから肉が好きなのは当たり前です。

だいたい個々の人間は存在していないのです。個々の人間は戦々兢々として生きているのです。びくびくしているのです。個人が生きているという気持ちを持っていますと、いつ死ぬかもしれないと思うのです。

この気持ちがありますと、これはいいかこれは悪いかと、いつも考えるのです。信じたらそれが気にいらない。勉強することが心配の原因になるのです。聖書を勉強すれば、それが悩みの種になるのです。何でもかんでも悩みの種になるのです。なぜそうなるかといいますと、個人的に生きているからです。個人的に生きているは悪魔の命です。自分がいるという思想が悪魔の思想です。

自分がいるという思想は、神の前に死んでしまっている思想です。神の前に立っていない思想です。「わが前に歩め」という神の声に従っていない思想です。

自分がいると思っているのは、神に隠れている思想で、これが自我意識です。アダムが神に隠れたように、神に対して自分を隠している思想です。これは蛇の思想です。生まれてくる前に人間は蛇の思想を持つようになったから、この世に追いだされたのです。蛇と同じ思想を持つようになったから、戦々兢々として生きることになったのです。

個人的な命を自覚することになったので、肉体的に生きるという条件を神が人間に与えて自我意識という状態でこの世に送り出したのです。

この世に人間を送り出したことが、神の方から言いますと、人間に死を与えたことになるのです。この世に生きている人間は、全部死んでいるのです。自分がいると思っているから、神に対して欠点ばかりが目につくのです。神を信じようとしないで、神を警戒しようという気持ちが強くなるのです。これが蛇が最も汝滑という意味です。

創世記に、主なる神が造られた色々の生き物のうちで、へびが最も狡滑であったとあります(31)。狡滑を英語ではサトル(subtle)という言葉を使っています。これは警戒深いとか、気を使っているとか、神経を細く使うとかいう意味です。狡滑とは正反対の意味になるのです。

これはどういう事かといいますと、神から離れて独自の命を持っているということです。自分一人で生きていかなければならないし、自分の命を自分で守らなければならないと思うから、いつも戦々兢々としていなければならないのです。

へびがエバを誘惑して、アダムに善悪の実を食べさせた。その結果人間が死んでしまったのです。それに対して神はへびに次のように宣言したのです。

「わたしは恨みをおく、

おまえのすえと女とのあいだに、

彼はお事えのかしらを砕き、

お事えは彼のかかとを砕くであろう」

(創世記315

へびのすえは女のすえのかかとを砕く。ところが女のすえはへびのかしらを砕くのです。女のすえはイエスです。女は罪がない人の子孫です。キリスト教では女は罪人だといいますが、女は罪がありません。女は罪人ではないという言い方は、キリスト教から考えると異端になります。ところが聖書は、イエスは女のすえであるとはっきり書いているのです。女が罪人であれば、イエスは罪人のすえであることになります。マリアは男によって身ごもったのではなくて神に生ませられたのです。男に関係なく子供を産んだのです。だからイエスは原罪を持っていなかったとはっきり言えるのです。マリアは罪がなかった。女は罪がない魂であることが証明されているのです。

皆様について言いますと、皆様の魂は罪を犯していません。魂とは何かといいますと、リビング(living)です。リビングは何かといいますと、皆様の五官の感覚を言います。五官の感覚は前生のままです。皆様の五官の感覚、目で見たり、耳で聞いたり、飲んだり、食べたりすることは、前生の感覚のままです。これに罪は染み込んでいないのです。

皆様は肉の思いで欲望的に飲んだり食べたりしていますし、セックスをしています。ところがその味は前世のものです。ですから肉を充分にかみ分けて、肉の思いを徹底的に理解すれば、肉は消えてしまうのです。肉の思いが女のすえになってしまうのです。肉的に存在している自我意識が消えてしまうのです。そのように役立てるのです。

五官は女のすえです。五官を霊的に用いることにより、食欲、性欲を逆に用いるのです。食欲はないのです。性欲もないのです。最初は食欲、性欲という思想はなかったのです。

織田信長は食欲、性欲といわなかった。ただ化転のうちに比ぶればと言ったのです。この方がずっと上等です。ユダヤ人学者が食欲、性欲と言い出したのです。これを日本へ持ち込んだのです。性と食は本能です。本能が欲という思想はおかしいのです。

本能はどこまでも本能であって、先天的なつながりです。前世からのつながりなのです。現世の欲ではないのです。現世のものを欲というのです。名誉欲とか物欲、金銭欲は欲望です。性はそうではあり喜ん。食も違うのです。これは本能なのです。

食と性を現世の欲と混同したのが、ユダヤ人学者の誤りです。

先天性を先天性と理解して、どういう事を経験しているかを勉強するのです。そうすると、マグダラのマリアの心理状態が分かってくるのです。女性がどうして男性の中に入るかが分かってくるのです。

女性が男性の中に入れるし、男性と女性が一つになれるようなセックスでなかったらいけないのです。セックスはただ欲望を満足させるものとは違います。前世的なセックスを経験しなければいけないのです。

そうすると肉が霊になってしまいます。肉が霊になることを経験すると携挙(けいきょ)されることになるのです。

キリスト教は恐ろしくてこういうことを言わないのです。肉の底が抜けて霊になってしまう所まで、はっきり肉を見つめなければいけないのです。そうするとマタイによる福音書十三章三十五節の内容が分かってくるのです。「口を開いて誓を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」という意味が分かってくるのです。食や性は世の初めから隠れていることです。これを勉強することが、現在肉体を与えられている人間がすべき事なのです。これができる人のことを女のすえというのです。

女のすえが悪魔のかしらをこぼつのです。悪魔のかしらは何かといいますと、肉体的に人間が生きているという考え方、自分が生きているという考えが悪魔のかしらです。これをこぼつのです。自分は罪ばかりの人間、欠点ばかりの自分で、助平で欲が深い人間だと思っている。この自分を殺してしまうのです。

へびのすえは女のすえのきびすを砕いたのです。へびのすえは何かといいますと、ユダヤ人です。キリストが現世に再臨できない様に仕向けられているのです。

再臨の時、キリストの足がオリブ山に立つとはっきり書かれていますが(ゼカリヤ書144)、キリストのかかとが砕かれていると立てないのです。オリブ山にいるユダヤ人がキリストを拒否しているので、立てないのです。そこで私達がユダヤ人のために祈らなければならないのです。

私達がユダヤ人のために祈ることが、足の踵の修繕をすることになるのです。かんらん

山(オリブ山)を中心にして住んでいるイスラエルの人々が、キリストを迎える気持ちを持って下さいという祈りは、キリストの足をいやして下さいという祈りになるのです。この祈りはキリストを待望する祈りになるのです。

私はキリストのかかとの修繕の役をしているのです。かかとが修繕されると、キリストの足がかんらん山に立つのです。かんらん山の周辺に住んでいるユダヤ人が主よ来たりたまえと言わなければ、キリストはかんらん山にこれないのです。

イエスはエホバの名をもっているのです。主の名を持っているものに来りたまえとユダヤ人が言う時に、キリストが再臨するのです。かんらん山にいるユダヤ人達がイエスが救い主であると告白する祈りを始めたら、キリストがかんらん山に立てるのです。

御心が天になるごとく地にもならせたたまえと言いうのは、イエスの復活という事実は現在第三天で成就しているのです。イエス自身が第三天におられるのです。第三天ではイエスの復活は事実です。ところが現在の世界では事実ではないのです。

御心は天においてすでに成就しているが、現在地球上では成就していません。だから地球上で成就しますようにという祈りが必要です。

世界の平和は天では成就しています。人間の罪は天ではなくなっているのです。十字架は天で輝いていますが、現世では罪で蒜です。戦争ばかりしているのです。そこでキリストの復活が地上でも事実となると、世界に完全な平和が実現するのです。

そのためには、ユダヤ人がどうしてもキリストを受け入れなければならないのです。信仰によって古き人はもう死んでしまっているということを、先に信じてしまうことが必要です。今生きているのは霊の人であって、この世に生れた古き人とは違うのです。今生きているのはキリストに所属する永遠の命としての人格なのです。これを自覚するのです。これがキリストのもの、クリスチャンです。

皆様が第三天において、キリストの復活がすでに成就しているとお信じになれば、その信仰そのものが第三の天になっているのです。信仰が第三天を形造っているのです。信仰の天が第三の天です。

天には三つあります。第一の天は目に見える現象世界です。第二の天は理論物理学で計算できる天、いわゆる天文学で見ている天です。第三の天はキリストの復活を信じている人の信仰です。

現世に生きている自分は、肉体的にいてもそれは霊なのです。肉体的にいることが霊です。肉体は存在していません。実は物体が存続するという事実はないのです。物理現象は存続しています。物理とはプロトンとエレクトロンの関係です。これが太陽と地球の関係になっています。太陽と地球が引力の関係でできている。プロトンとエレクトロンも引力の関係でできている。微宇宙の世界と大宇宙の世界は同じものです。

プロトンとエレクトロンの関係が、物質があるように人間には見えるのです。物体的な感覚を人間に持たせているのです。物があるという意識はここから来ているのです。実はプロトンとエレクトロンの関係があるだけであって、物体はないのです。物体はありません。電気現象があるだけなのです。これをエバーラスティング(everlasting)というのです。エバーラスティングというのは物質が継続的にあるよぅに見えるのです。エターナル(eternal)というのは瞬間的にあるように見えるといぅことです。瞬間が連続しているのがエターナルです。エバーフスティングは継続的にあることです。永遠にはエターナルとエバーラスティングと二つあるのです。

欲望の底をつき破って信仰にしたらいいのです。欲望と信仰と二つあると思うからいけないのです。肉を徹底すれば霊になる。霊を徹底すれば肉になるのです。肉と霊はこういう関係になるのです。ただ女のすえとへびのすえとがありますから、歴史の流れを知る必要はありますが、霊と肉の関係は、表があるから裏がある、裏があるから表があるということになるのです。考え方を宇宙大に広げるのです。あらゆることを知って、へびのすえをやめて女のすえになったらいいのです。

イエスは現世で、気楽な生き方をしていたのです。提的な生き方をしていなかったのです。聖書は難しい宗教書ではありません。女のすえとへびのすえという原理原則はしっかり弁えておく必要はありますが、人生全体の裏と表を見通すような考えを持てばいいのです。肉を霊に替え、霊を肉に替えることができるのです。替えることができないのは、とらわれているからです。何かに囚われているという考え方をやめるのです。そうすると携挙されるのです。

自分が生きているという小さなつ事bない考えをやめるのです。神と人とは恋愛の関係です。神が好きでた事左くなってくると、信仰の芽生えができたのです。キリスト教ではこういうことを言いません。神に恋するというと、そんな不謹慎なことを言ってはいけないといって叱られるのです。

神の御霊は人の魂をねたむほどに愛していますが、人はねたまれるほど愛されているとは感じないのです。このことをよくよく感じて頂きたいのです。


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