21ユダヤ人のトリック

聖書は神という存在と人間の本質である魂の二つをつないでいるのです。これが分からないために、命ということ、神ということ、存在ということがまるで分からないのです。地球が存在するとはどういうことなのか、これが分かっていないのです。天文学者が分かっていないのです。地球という存在は特殊な惑星なのです。植物や動物が地球にはつまっている、生命現象が地球に満載している、この不思議な惑星が、太陽系にだけ存在しています。こういう存在をどう説明するのか、現在の天文学者は全然分かっていないのです。

地球は普通の惑星ではないのです。森羅万象、万物という不思議な生物が繁茂しています。我々はこの地球があるために、生まれてきたのです。人間という不思議な生物が、地球にだけ発生しています。

ユダヤ人のSFで言いますと、地球以外にも人間が存在する惑星があるだろうと言っていますが、それはユダヤ人の御伽話なのです。ユダヤ人はこういう言い方で、地球をまじめに見ようとしないのです。地球をまじめに勉強させようとしないのです。そういうトリックがあるのです。

現代人は、大なり小なりユダヤ主義に感化されているのです。高校や大学で習ったことは、ユダヤ主義が中心になっているのです。そういうトリックにかかってしまっているのです。

日本人は、聖書を読もうとしないのです。これは非常に不幸な状態です。だから天皇制ということが分からないのです。聖書をまじめに読もうとしないものに、天皇制が分かるはずがないのです。日本の右翼が考えているものでもありません。天皇御自身が天皇制を理解していないのです。これは聖書に対して抵抗しているからです。日本の国のシンボルマークは太陽です。一体、日の丸の旗は何を意味するのか、こういう日本の根底についての問題が、全然理解されていないのです。

聖書は世界の文化の原因です。世界的な文化の根底なのです。人間存在の根底が聖書です。神と人間の霊魂の関係が、人間の生命現象の基本です。生命現象の基本について、はっきり受け止めていないのですから、生きていることの説明がまるでできないのです。

神といっても、仏といっても根本からまちがっているのです。キリスト教は、イエス・キリストの購いによって救われるということはいいます。それは、キリスト教の宗教概念なのです。宗教概念は聖書の入口です。中まで入っていないのです。入口までいった人が、もう中へ入りこんだと思いこんでいる。そういう思いあがりが間違っているのです。

新約聖書ローマ人への手紙三章二十三節に、人間は皆罪を犯したので、神の栄光を受けとることができないと書いています。これは、神が人間に永遠の命を与えているけれど、それを受けとめるだけの精神的な機能性を持っていないと言っているのです。

人間はすべて罪を犯しているので、神が人間に与えている永遠の命の本質を、受けとめることができないような精神状態になってしまったといっているのです。

人間は聖書を読み、キリスト教の説教を聞いたぐらいでは、神の永遠の命の実物を受けとめることはできないのです。なぜかというと、自分自身が生きているということがまちがっているからです。十字架というのは、人間が死んでしまうことなのです。

神の目から見ると、肉体的に生きている人間は、すでに死んでしまっているのです。神は肉体的に生きている人間を、認めていません。神が認めているのは、復活したイエスだけです。復活のイエスの命を受けとらなければ、命はないのです。神が認めているのは、イエスという人だけなのです。イエス以外の人間を神は一切認めていないのです。この原理はなかなか難しいので、狭き門とイエスがいっています。

要するに、人間はすでに救われてしまっているのです。しかし、神が与えている復活の命を、受けとることができなくなっているのです。常識でごまかされているからです。学問で頭がユダヤ主義になりきっているからです。

常識、学問は、霊魂をめくらにしてしまうものです。人間は知らず知らずのうちに、文明思想によって、魂がめくらになっているのです。だから、文明思想で物を考えているとイエス・キリストの復活は全然分かりません。人間は皆罪を犯したから、神の栄光を受けとることができなくなっているのです。この言葉ではっきり証明できるのです。本当に永遠の命を得たいと思われるなら、真剣に勉強してください。イエスは、新しく生まれなければ、神の国を見ることができないと言っています(新約聖書ヨハネによる福音三章三節〜六節)。又、水と霊によって、新しく生まれて神の国へ入れとイエスは命令しているのです。これをキリスト教では実行していないのです。水から生まれるとはどうするのか、分からないのです。キリスト教は宗教だからだめです。

聖書は宗教ではありません。真実です。もし聖書を軽視すれば、死んで必ず火の池へ行きます。そこで悲しみ歯がみをするであろうと書いているのです。

現在の人間は、生きているのではありません。生きているかっこうがあるだけなのです。今の人間の命は、死んでしまうにきまっている命なのです。そういう命をもっていながら、生きているつもりなのです。これは根本からまちがっているのです。その証拠に、七十年、八十年生きても、命について何も分からないのです。この世の商売のしかたとか、人間のつきあい方とかいうことは、ご存じです。しかし命については、八十年、九十年生きても、全然分からないのです。

そんな人間が救われて一体どうなるのでしょうか。仮にそんな人間が神の国へ言っても、座る席はどこにもないのです。神の国は神の言葉どうりに、自分自身の命をきりかえたものだけが入れるのです。値段は高いのです。救われるというのは、簡単なことではないのです。そのかわり、救いというのは明白な事実です。キリスト教ではだめです。キリスト教ではない聖書、本当の神の言葉をつかまえることです。自分の思いを問題にしているようでは、とても神を信じているとは言えないのです。神を信じるというのは、自分の気持ちを一切問題にしないことです。

心を騒がすな、神を信じ、また私を信じなさいとイエスは言っています。心を騒がすなとは、色々と考えるなということです。この世に生きている人間、肉体的に生きている人間が、肉の思いで良いと思っても、悪いと思っても、そんなことは霊魂の本当の声ではありません。霊魂の本当の声は、死にたくないという声です。死にたくないという事を、熱心に考えることです。素朴に考えるのです。そうすると、死ななくてもよい方法が与えられます。

イエスが復活した時に、紀元元年が始まっています。西暦紀元というのは、人間が死ななくなったという、歴史的記録なのです。人間が死ななくてもよいようになってから、二千年以上もたっているのです。

それなのに、まだ人間は死なねばならないと思っています。これは全知全能の神の処置に反抗しているのです。死んでからでは遅いから、生きているうちに、目を開くのです。神は人に、死ななくてもよい命をすでに与えているのです。死ななくてもよい命の実物をすでに与えているのです。復活という永遠の命の実物を与えているのです。聖書で、父なる神は、イエス・キリストを死人のうちから廷らせたことによって、すべての人を再び生んだと書いているのです。この言葉をキリスト教は見逃しているのです。

自分がキリストを信じてもだめです。自分というものは、もういないのです。そして、今生きている命が、キリストの命になっているのです。もう人間は死ぬ必要はないのです。

ところが、未だに、世界中の人間が死なねばならないと思っている。これは文明のせいです。文明を形追っているユダヤ人のせいです。世界の政治のせいです。政治が悪いのです。教育が悪いのです。経済、文明が悪いのです。

イエス・キリストが死人のうちから復活したことによって、すべての人間はもう死ななくなっているのです。新しい命を提供しているのです。人間はそれを受けとっていないだけなのです。聖書がキリス教だと思っているからです。

世界の歴史は新しくなっているのです。西暦紀元というのは、神が人間に死なない命を提供してから、2006年になったということなのです。この神の処置を黙って受けとればいいのです。これが死なない命を得る方法なのです。


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