22霊とは何か

日本人が霊という言葉を使うのは、新興宗教のような感覚で物を見た場合の言い方なのです。現在の人間が肉体的に生きているというのは肉の命なのです。

ところが、命の本質は霊なのです。たとえ肉の命で生きていても、その人の命の本質は霊なのです。人間の肉体は細胞が集まってできていますが、細胞が集まって生理機能として働いている事実、この事実を私達は命として経験しているのです。この細胞が働いているということが霊なのです。

細胞が働くという事実はどこからきているのでしょうか。なぜ細胞がそのように働いているのでしょうか。例えば、目で物を見る場合目の細胞が働きます。胃腸が働いて消化する場合は胃腸の細胞が働きます。目の機能と消化吸収の機能とでは、機能が違うのです。人間の肉体ということになると、呼吸機能、消化吸収機能が一つになって、健康という状態で現れています。

問題はそういう生理的な合理性がどうしてできるのか、これが霊なのです。この説明は学問ではできないのです。消化機能だけの説明なら医学でできます。ところが、消化吸収機能、排泄機能、呼吸機能全体が働いて、しかもそれが心理機能にまで影響している。そういう全体の機能がどうしてできているのでしょうか。人間というものができている原理は何なのかということになると、医学では全然説明ができないのです。これが霊なのです。

さらに、地球がなぜできたかという根源的な問題になりますと、皆目分からないのです。地球がなければ、人間も動物もいるはずがないのです。地球が四十五億年前にできたといいます。しかしなぜ地球ができたのかという説明は、科学ではできないのです。

唯物論者は、人間は偶然にできたのだといいます。人間は偶然に生きているという説明は、人間についての完全な説明にはならないのです。人間が偶然に生きているのなら、法律や道徳は必要がないのです。しかし、法律や道徳をつくらないと、人間社会が成立しないのです。マルクスの理屈はそこで行きづまってしまうのです。マルクスはユダヤ人でしたから、本来ならこんなことは言わないのです。ユダヤ人というものの中に色々な人間がいますが、マルクスのようなユダヤ人ばかりではないのです。

現在、肉体的に生きているということが、人生の目的だという考え方が、最近の人間の考え方になっていますが、これはユダヤ人のトリックなのです。すべてのユダヤ人がマルクスの思想を信じているかというと、そうではないのです。共産主義を展開し、宣伝したマルクス自身が、共産主義を信じていなかったのです。レーニンも共産主義者にならなかったのです。ユダヤ主義者だったのです。共産主義を利用して、革命をしただけなのです。政治の中にはこういうトリックがあるのです。世界の異邦人はユダヤ人によっていいかげんにあしらわれているのです。手の上のダンゴをころがすようにされているのです。

酸化しつつ、老化しつつ物が存在するという事実は、物が存在するのではないということです。スチール製の机は風化するのに時間がかかります。ところが花は非常に早く老化します。二、三日たてば、姿、形は非常に変わってしまいます。

花が咲くというのは、地球の命が花が咲くという形で現れているのです。土の命を花がすいあげて、咲くという状態で命を現しています。では命とは何かというと、風化しながら命が現れていることになります。風化というのは物理的なものですが、命というのは宇宙の生命に関する真実なのです。

一体地球というものがあって、花が咲いたり、鳥が飛んだり、雨が降ったりしている、こういう地球から見た宇宙現象がなぜあるのかということです。

宇宙には、命というものが輪廻しているのです。命の輪廻というものを、私達は、七十年、八十年の間経験しているのです。経験している間に命の本質をつかまえることができると、その人は死ななくなるのです。

イエスという人は、命の本質をつかまえたので、彼は死を破って、死んでから三日

目に復活したのです。現在もなお生きているのです。

人間の命は、生きている間だけのものではないことを、イエスは証明したのです。イエスが証明しなくても、私達は生まれて二十四時間以内に母親の乳をのんだという事実があるのです。これは生まれてくる前の生、つまり前生があることの証明になるのです。

そのように、人間の命というものは、一度人間としてこの世へ生まれてきて、命を経験したら、その命から離れることができなくなるのです。この世で、二十年、三十年生きていた人は、命とその霊魂が結びついているのです。

生きていたこと、又生きていることが霊なのです。人間の心臓が動いていることが霊なのです。目で見えることが霊です。これは宗教でいう霊とは違います。神の霊に結びついた考え方で見た霊なのです。

花は肉なるもの(現象)ですが、花が咲いているという事がらが霊なのです。目は花という霊を見ているのです。魂というのは、五官の機能の働き、又は物を考える力です。心理機能、生理機能が魂なのです。生きているという事柄が霊です。

仏教には魂という言葉がないのです。仏教は、現実に生きている人間をつかまえて、そのまま説明しないのです。人間が生きている状態を、人間の立場から、十二因縁、四諦八正道という言い方で説明しているのです。これが仏教の唯識論です。

人間の霊魂が命を経験することになりますと、霊魂と命が一つになってしまうのです。そこで、命とは何かを自分で勉強しなければならないことが、人間がこの世に生まれてきたことの絶対的な責任なのです。これをやらずにいますと、魂が審判されなければならないことになります。

誰でも、それができるだけの力を持っているのです。花を見ればきれいだという気持ちがします。花を見てきれいだと思える人は、その人の目が霊を見ているのです。

霊というものの美しさを受けとめていることになるのです。花の美しさが分かるということは、その人の霊が正当な力を持って働いていることになるのです。それができる人は、死なない命を見つけることが必ずできるのです。できるはずなのです。花の美しさが分かるということが、その能力があることを証明していることなのです。花を育て咲かせているのは、商売人がしているでしょう。しかし、商売人は花を育て、世話をしただけなのです。花そのものを製造したのではないのです。

花が咲いているのは、自然現象です。宇宙の命が現象として現れているのです。宇宙の命というのは、神の命なのです。この神は日本の神ではなく、天地を造った神なのですが、その命が花の形で現れているのです。神の命の美しさを、花の形として見ているのです。魂は、神のやり方を正しく受け取るだけの能力があるのです。花の美しさが分かれば、もう二、三歩前進すると死なない命が分かるのです。これをやろうとしないのは、人間の責任なのです。

こういう点から見ると、日本人は非常に命をそまつにする国民です。欧米人はもっとひどいかもしれません。日本人は、分からないけれども、般若心経を読んでみようという気持ちがあるからまだいいのですけれど、今の世界の人々は、ユダヤ人のトリックにひっかかって、この世で生活していることだけが命だと思いこんでいるのです。

この世で生きていることだけが命ではありません。過去世もあったし、来世もあるのです。現世を去れば、いやでも来世に行かざるを得ないのです。常識が通用するのは現世だけなのです。来世では常識は一切通用しないのです。ところが、人間は科学や宗教が来世でも通用すると考えています。これはとんでもない考え違いなのです。

空が分からない原因は、現代の常識を信じすぎているからです。冷静になれば、空ぐらいのことは誰でも分かるのです。釈尊は大学へ行っていません。大学へ行かなかったから分かったのです。仏教大学は何も分かっていないのです。

色即是空というのは理屈ではありません。悟りです。具体的な命の光なのです。これが分からなければ、命をつか事えることはできません。現在の人間の常識が空であることが分かりますと、命をつかまえることができるのです。命の本質の中へその人の命が入っていきますと、死ななくなるのです。

イエスという人が、それを実験したのです。歴史的に証明したのです。だから、イエスが死を破ったという歴史的事実を学の対象にすると、人間の歴史が根本からひっくりかえってしまいます。死なない命が、生活の表面に現れるようになったのです。

人間の根本的な考え違いを是正するのが、空観なのです。人間の考えは、学問でも常識でも、すべて間違っています。五蘊皆空というのは、それをいっているのです。

空が分からないのは、現代人の意識にこだわりすぎているからです。まず空を悟ること、そうすると実質としての霊がわかってくるのです。


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