23地球はなぜ造られたのか

人間は誰でも、固有名詞の自分がいると信じています。国家、社会があるために、役所へ届け出をしています。役所に届け出をしているという意味では、肉体を持っている人間を認めなければなりません。その意味では、固有名詞の自分はいるといえるでしょう。

ところが、宇宙全体から見ると、そういう人間はいないのです。いるはずがないのです。生まれた直後の赤ん坊には固有名詞がありませんし、原始社会には固有名詞はなかったのです。

たまたま、日本のある両親に生まれたので、山田太郎という名前をつけられたのです。もし、アメリカやヨーロッパに生まれていれば、全然違った名前をつけられたでしょう。固有名詞はあくまで便宜上のものですが、それを絶対の名前と信じこんでしまうのです。山田太郎という固有名詞が、自分自身であるかのような錯覚に陥ってしまうのです。

人間の本体は、理性、良心、五官を中心にした魂です。人間は理性、良心、五官がなければ、絶対に生きていけません。ところが魂を全く無視して、固有名詞が生きているような錯覚をしてしまうのです。

機能的には魂で生きていながら、意識的には固有名詞という偽人格で生きている、そこで、いつでも矛盾、撞着が起きるのです。人間が不自由になっている原因は、ここにあるのです。

パウロは、「神は死人に生活を与えている」といっています(ローマ人への手紙417)。英訳ではgives life to the deadとなっています。ライフというのは、生活といぅ意味もあり、命という意味もありますが、現世で人間が生きている状態をいうのです。

神は死人に生活を与え、命を与えています。死んでいる者は放っておけばいいのに、命を与えています。なぜこんなことをしているかということです。

有史以来、七百億人以上の人が地球上に生まれたと推定されていますが、その中のごく少数の人が、リビング(生きていることの実体)に気がつくかもしれないからです。

固有名詞で生きているのではない、リビングに基づいて生かされているのです。リビングが命であり、神であるということに気がつくかもしれない。これを神がねらっているのです。

なぜ現象世界ができたのか、なぜ地球が造られたのか、これはどんな宗教書にも書いていません。ただ旧約聖書だけに、その理由が書いてあるのです。

人間は現世に生まれてくる前に、罪を犯して死にました。(これについては非常に多くの説明をしなければなりませんが、今は結論だけを述べておきます。詳しくは拙著「永遠の命を得るために第一巻〜第四巻、近代文藝社刊」をお読み下さい)死んだ人を直接地獄へ放り込こむ前に、現世という収容所をつくり、人間を一時的に放りこんだのです。そこで自分の間違いに気がつく人がいるかもしれないからです。

神は罪を犯した人間をエデンの東へ追放しました。現世はエデンの東です。エデンの東とは罪人のいる所という意味なのです。

一体、人間は、前世でどういう罪を犯したのでしょうか。神に生かされているのではなく、自分が生きていると考えたのです。これが神に対して罪を犯していることになるのです。

神は人祖アダムに、「善悪の木の実を食べてはいけない」と厳しく忠告しましたが、それを食べてしまったのです。

善悪の木の実を食べるとは、善悪を自分の立場から判断しはじめたことなのです。本当に善悪を判断するためには、宇宙全体に立って、永遠という角度から見なければならないのです。これは神という宇宙の絶対者しかできないのです。

ところが人間は、自分という極めて狭い立場、限定された人生から、善悪を判断しはじめました。これでは独断的な判断になるにきまっているのです。

神しかできないことを人間がしはじめました。これは人間が誠の神を押し退けて、自ら神になったことを意味するのです。「見よ、彼は我々の一人になった」とあるのです(創世記3・召。そこでエデンを追放されたのです。

全世界の人間は、誰もが自分がいると確信していますが、ほんとうに自分はいるのでしょうか。これは、少し冷静に考えればわかることですが、自分で生まれたいと思って生まれた人は、一人もいません。生まれた年代も国も両親も身長も、肌の色も顔の形も、名前も一切自分で決めていないのです。心理機能も生理機能も、五官も自分でつくったのではありません。

これは、徹頭徹尾、百パーセント自分ではありません。だから自分は、いるはずがないのです。ですから、自分がいるという考えは百パーセント妄想なのです。

現世には、罪を犯した人、いわゆる犯罪者ばかりが収容されています。ですから、様々なトラブル、矛盾、乱轢、争いが絶えないのです。家庭内トラブル、学校内トラブル、社会のトラブル、倒産、殺人、戦争、地震、台風、洪水、噴火、冷害、飢饉、疫病と苦しみがたえないのです。

聖書は、すべての人を、「罪の下にとじこめた」(ローマ人への手紙714)と言っていますが、これは死の下にとじこめたという意味なのです。ですから、地球にいる人間は、全部死ぬ運命にあるのです。

六十四億の人間は、遅かれ早かれ、絶対に死ななければならないのです。これは全員、無期懲役に課せられているのです。そして、死にたくないのに死んでいかなければならないのです。これは殺されることなのです。つまり、死刑を執行されるのです。

人間はなぜ地球で生かされているのでしょうか。現世で何十年かの間、矛盾、撞着を味わっている間に、「自分が生きている」という思いの間違いに気がつくかもしれないのです。

自分が生きているのではなくて、大自然によって生かされている、心理機能、生理機能、五官が神の働きだということに、気がつくかもしれないのです。それに気がついた人は、死から開放されるのです。

パウロは、「自由を得させるために、キリストは、わたしたちを開放して下さったのである。だから堅く立って、二度と、奴隷のくびきにつながれてはならない」といっています(ガラテヤ人への手紙51)。

死(罪)の奴隷になっていた人間を、完全に開放した、これがイエス・キリストの十字架という、驚くべき処置なのです。

イエス・キリストの十字架によって、自分が生きているという人間の妄想、あらゆる人間の間違った考えを、完全に否定してしまった、そしてすべての人を死から開放したのです。その結果、人間は本当の意味で、自由自在になったのです。あらゆる苦しみ、悲しみ、悩みから開放されたのです。何物にもかえがたい、本当の自由が与えられたのです。

これは、今から二千年以上も前に実現したのです。日本の国ができる前に成就したという本当に古い出来事ですが、人類はいまだに様々な苦しみ、悩み、悲しみにおびやかされています。死の奴隷になり続けているのはなぜでしょうか。それは、人類を指導しているユダヤ人がイエス・キリストの十字架を拒み続け、「人間は死ぬのがあたりまえ」という思想を人類に押しっけているからです。

そのために、二千年もの間、人類は苦しみ、死に続けているのです。わたしの心からの願いは、ユダヤ人がイエス・キリストの十字架と復活を受け入れることなのです。そうすれば、人類は死から開放され、本当の自由を経験することができるでしょう。地球上に驚くべき完全平和、絶対平和が訪れるでしょう。

数千年の間、人類がこころの底から願っていた、犯罪のない世界、病気のない世界、あらゆる災害のない世界が実現するのです、地球上から、病院と刑務所がなくなるのです。その時人々は、心から自由を味わうことができるのです。これは聖書に預言されていることで必ず実現します。

わたしの心からの願いは、ユダヤ人がイエス・キリストの十字架、復活を受け入れて、地球上に絶対平和が実現することです。一日も早く、こういう世界が実現することを切望してやまないのです。


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