24天使長ルシファーの反逆

創世(この世がつくられたこと)がわからないのです。神が天地をつくったと言いますが、これはどういうことか。聖書を正確に学ぶためには、創世が分からなければいけないのです。天地創造の意味が分からなければいけないのです。

キリスト教では、神が万物を造ったといいます。貢某としては間違っていませんが、その意味が分かっていないのです。

ローマ人への手紙に、「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである」(867)とあり肉(現象世界)をつくったのは誰かということです。人間の肉体は人間が造ったものではありません。肉の思いというのは、人間が肉体的に生きているという感覚で自分を見ることです。

人間の肉体があるのは、地球という物体があることに起因しています。時間、空間が存在するから、地球があり、万物がある。人間の肉体があるのです。

聖書は物質を肉といっています。万物を造った神は、肉をつくったことになるのです。ところが、万物があると思うことは、神に敵する思想だというのです。一体、地球という肉を造ったのは、神であるのかないのかということです。神が地球を追ってぉいて、地球があると考えることが神に敵するといっています。これがおかしいのです。

物体的に存在する地球を造ったのは、神に違いないのです。創世記にそう書いているのです。ところが、物理的な地球があること、万物が存在すること、肉体人間が生きているという気持ちで生きているということが、神に敵するといっているのです。これが分からないのです。

唯物的にも即物的にも、物質を念頭に置かなければ、政治も経済も、道徳も学問も、成立しないのです。人間が肉体的に存在するという意識に立たなければ、宗教も芸術も文化も成立しないのです。ところが、肉の思いは神に敵するといっています。パウロは、地球がある、肉体があると思うことが間違っているというのです。

神がこの世を造ったとはどういうことなのか分からないのです。これが明確に分からないことが、人間歴史の根本的な間違いの原因なのです。あらゆる学問の間違い、あらゆる宗教の間違い、あらゆる道徳意識の間違い、社会構造の間違いの原因は、ここにあるのです。

このことを現在の日本人にいくら話しても、分かってもらえないのです。色即是空が分からない人には、これは絶対に分からないことなのです。色即是空とは、現在地球があると思っていることが、真っ向から間違っているというのです。そこで般若心経の色即是空と、聖書の創世の内容は、ぴったり一致するのです。

天地万物を造ったのは、神に間違いありません。ところが、神が造ったといっても、神が喜んで造ったものと、心ならずも造らなければならないから造ったものと、二通りあるのです。

現在の地球は、神が心ならずも造ったのです。やむを得ず造ったのです。造りたくないけれども造ったのです。これがキリスト教では、全然分かっていないのです。

肉体的に生きていると思うことが、罪の原質です。肉体的に生きているという気持ちをやめれば、原罪はほとんどなくなってしまいます。後は人間の感覚だけになるのです。これは誰でもできることです。創世記で、神が段階的に、太陽と地球、森羅万象を造りました。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(131)と書いています。ここで、分からなくなるのです。

神は霊的なものです。霊とはなにか。聖書は、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝するべきである」(ヨハネによる福音書424)と書いています。霊であるとは、物質を認めないという立場をとっているのです。霊とは、コンディション(condition)、又は事柄です。状態です。花が咲いている事柄、状態が霊です。

花という物質は霊ではありません。花はどこまでも花です。これは肉です。人間が生きている状態は霊です。しかし肉体は肉です。ここが難しいのです。

般若心経は色即是空、空即是色といっています。これは白人意識には全くありません。皆様が般若心経を正しく理解して頂くなら、日本からすばらしい光を、全世界に発することができるのです。般若心経というすばらしい文化財を持っている国民は、日本人しかいないからです。

神は肉(物質的な地球)を造ったけれど、神が喜んで造ったものではないことを、よく考える必要があるのです。なぜそう言えるかといいますと、創世記の原点を見て頂ければ分かるのです。創世記の冒頭に、「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(112)とあります。

神は最初に、天という原理と地という原理をつくったのです。その時、地は形なくむなしい状態であった。そしてやみが淵のおもてにあったのです。淵とは水が澱んでいて、流れていない所です。瀬と淵があります。瀬は水がよく流れている所ですが、淵は流れが見えない所です。

やみが淵のおもてにあったという前提が、天地創造の大原則になっているのです。キリスト教ではこれが分からないのです。天地創造の大原則が見落とされているために、人間肉体的に生きている原理、地球構造の原理が分かっていないのです。霊と肉の根本原理が捉えられていない場合は、いくら聖書を勉強しても正解することはできません。

淵とは何か。水が停滞している状態をいいます。流れが止まったような状態になっているのです。

例えば皆様の肉体が存在するのが淵です。淵と肉は同じなのです。人間の肉体は、呼吸の働きと血液の流れが中心になっています。他に消化吸収機能、排泄機能とか色々ありますが、やはり呼吸機能と血液の循環が中心で、これを分かりやすく言いますと、新陳代謝になるのです。かつて宇宙に、ルシフアーといわれる大天使がいました。たくさんの天使がいましたが、その全体を統括管理する役目をルシフアーが与えられていたのです。

ところが、ルシファーは神の仕事の根本原理を任されていたことをいいことにして、自らの発想によって宇宙を見はじめたのです。これがやみが淵のおもてに座したということなのです。やみが淵のおもてに位することになったのです。

やみには神からすばらしい能力を与えられていました。やみはその能力を自分自身の能力であると錯覚したのです。その結果天使長が悪魔になったのです。その悪魔が淵に位しました。

淵というのは、水がよどんだ状態を言うのです。人間の肉体があるように見える状態が淵です。肉体があるのではなくて、生理機能と心理機能があるのです。機能の働きはありますけれど、肉体が実在するのではないのです。

これは少し冷静に考えれば、簡単に分かることです。ところが肉の思いで考えますと、肉体があるように見えるのです。これを般若心経は色蘊といっています。色蘊とは、目で見ている状態がそのまま実在すると考えることなのです。五経の一番最初が色です。目で見ているとおりの肉体があると考えるから、五蘊という一切の迷いが起きると、般若心経は言っているのです。

聖書もこれと同じことを言っていますが、キリスト教の指導者が、それを正しく読みこなしていないのです。キリスト教が間違っていると私が言う根拠は、ここなのです。

キリスト教は、本当の悪魔を知らないのです。実はキリスト教の人々が、現象は実体である、自分がいると固く信じています。これは悪魔の考えをそのまま受けついでいることになるのです。だから、キリスト教の牧師自身が悪魔の手先になってしまっているのです。悪魔の手先になっている牧師が、聖書を教えているのです。イエスが律法学者とラビをぼろくそに言った理由は、ここにあるのです。

物質があるのではありません。物理運動があるのです。物質構成の原理があるのです。物質構成は神の霊の働きによるのです。御霊の働きです。

神の霊が水のおもてをおおっていた。おおっていたというのは英語では動かしていた(moved upon)となっているのです。水のおもてとは水素原子を意味するのです。水素原子が第一原子で、核の回りを回る電子の数がふえていくと、ヘリウム、酸素、窒素、燐、カリウムとなっていくのです。原子核の回りの電子を動かしているのは神の御霊です。これが物体になって見えるのです。これが現象世界の実相です。

このことを創世記の≡早二節ではっきり書いているのですが、キリスト教はそれを見落としているのです。聖書の見方が間違っているのです。天地創造の原点が分からない状態で、どうして罪の説明ができるのかと言いたいのです。ルシフアーを天使長にしたのは神です。ルシフアーが神の山において、どれほど輝かしい存在であったかを、聖書は述べています。

「あなたは智恵に満ち、

実のきわみである完全な印である。

あなたは神の園エデンにあって、

もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。

すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、

緑柱石、縞めのう、

サファイア、ざくろ石、エメラルド。

そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。

これらはあなたの造られた日に、

あなたのために備えられた。

わたしはあなたに油をそそがれた

守護のケルグと一緒に置いた。

あなたは神の聖なる山にいて、

火の石の間を歩いた。

あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。

あなたの商売が盛んになると、

あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯し

それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、

守護のケルグはあなたを

火の石の間から追い出した。

あなたは自分の美しさのために心高ぶり、

その輝きのために自分の智恵を汚したゆえに、

わたしはあなたを地に投げうち、

王たちの前に置いて見せ物とした。

あなたは不正な交易をして犯した多くの

罪によってあなたの聖書を汚したゆえ、

わたしはあなたの中から火を出して

あなたを焼き、

あなたを見るすべての者の前で

あなたを地の上の灰とした。

もろもろの民のうちであなたを知る者はあなたについて驚く。

あなたは恐るべき終わりを遂げ、

永遠にうせはてる」(エゼキエル書281219

油そそがれたケルグとは、神の智恵の猛烈な働きです。それに天使長が同居していたのです。ルシファーをそのような状態に置いたのは神です。

やみが淵のおもてに座りこむ前に、地は形なくむなしくとあったのです。その時、神は天という原理原則、地という原理原則をつくったのです。地球ができる前のことです。

やみが淵のおもてに座すことを望んだのです。天使長は、目に見える状態が実体だと考えたのです。これが肉の思いの源泉です。その時、自我意識が発生したのです。

やみは自分の立場で、自分の考えを固執しました。これが淵のおもてに位したことです。やみは自分自身の考えにこだわったのです。これが自我意識の発端です。

人間が現在持っている自我意識は、天地創造以前に悪魔が発明した意識です。陥罪、エデンの園で善悪の実を食べたことによって、悪魔の自我意識が男に伝承したのです。分かりやすく言えば、男が悪いのです。いわゆる殿方と言われる人々が悪いのです。男ずらが原罪のプライドを代表しているのです。これがいわゆる自尊心であって、男が自尊心をやめてしまえば、悪魔の巣窟が世界になくなるのです。しかし男は絶対にやめないでしょう。男は男だと思っているからです。これが世界を腐らせているのです。

ユダヤ思想は男性思想です。ユダヤ人は男を非常に重んじる民族です。これが悪いのです。モーセの間違いは、男性に固執したことなのです。

女性は、陥罪する前のアダムの骨によって造られた。女性は骨の骨ですから、ほとんど原罪はありません。女性の原罪をつくったのは、男です。禁断の木の実を食べてはならないと言われたのは男です。女に言ったのではありません。

男は禁断の木の実を食べました。これは明らかに神の戒めを破ったのです。女性は食べてはいけないと言われていないのです。男性意識を持っていること、殿方意識を持っていることが悪いのです。男性が男ずらをやめると、家庭は一遍に平和になるのです。

女性の本性は天に仕えることであって、男性ずらに仕えることではないのです。原罪に仕えることではないのです。男の自尊心は、はっきり原罪のスタイルです。

男がそれをやめれば、日本社会は非常に変わります。キリスト教はそれが分からないのです。人間存在の原点が、キリスト教では分かっていないのです。そんなことで神なんか分かるはずがないのです。

聖書で言う救いは、個人として救われるのではありません。キリストの教会として救われるのです。教会は個人ではありません。集団が人格です。集団的個性です。個々の人格が救われることは絶対にありません。

神は心ならずも現象世界を造りました。それを見て神は、「はなはだ良かった」と言っています(創世記131)。これが意味深長な所です。悪魔を騙すように、うまくできたと神は喜んでいるのです。現象世界は悪魔がいっぱいひっかかるように造られました。動物や植物、人間という形あるものができました。これなら悪魔がいっぱいひっかかると神は思ったのです。

果たして、万物が現象として現れていることに、悪魔は、まんまとひっかかったのです。目に見える現象世界が実体だと、悪魔が確信したのです。これは単なる淵の現象であって、無いものが有るかのように見えるだけなのです(ローマ人への手紙417)。聖書はこれを譬といっているのです。(マタイによる福音書1337

般若心経は一刀両断のもとに「色即是空」と喝破してるのです。あらゆる現象的物体(色)は、実在していない(空)と、見事に言いきっているのです。

理論物理学は、物質は存在していなくて、原子核の回りを電子が回っているとにすぎないといっています。物質はエネルギーだということを発見したのです。それを実証したのが、広島、長崎に投下された原子爆弾です。原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾は、物質が存在していないことを如実に証明しているのです。現象的物質が現れていることに、悪魔はまんまとひっかかりました。現象的物体があると確信しました。これが淵の思想です。世界六十億の人間も、物質が存在すると確信しています。淵の思想の虜になっているのです。政治、経済、法律、道徳も全部淵の思想です。淵の思想を信じている人は、やがて悪魔と共に滅ぼされるでしょう。淵の思想の間違いに気がついた人だけが、永遠の生命に到達することができるのです。


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