27千年王国の驚くべき光景

新約聖書に次のような譬があります。

「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕(しもべ)ども呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一夕ラントを与えて、旅に出た。五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。

二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。しかし一夕ラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。すると五タラント渡された者が進み出て、ほかの五タラントを差し出して言った。

『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕(しもべ)よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう、主人と一緒に喜んでくれ』。

二タラントのものも進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

一夕ラントを渡された者も進み出て言った。『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。

すると、主人は彼に答えて言った。『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントをもっている者にやりなさい。

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』」(マタイによる福音書251430)。

タラントは当時使われていた金貨で、人間に与えられた才能、能力性を意味するのです。人間はそれぞれの環境、立場において、それぞれ、一夕ラント、二タラント、五タラントを与えられて現世に生きているのです。

一タラントを与えられた者は、地を掘って隠していた。神はそれなら銀行に預けておいた方が良かったと言っている。なぜ神がこういっているかです。

二タラント、五タラントを預けられた者は、それぞれ二タラント、五タラントを儲けた。この人々はいいのですが、地面に一夕ラントを埋めた者を、悪しき僕と叱っている。なぜ神は叱ったのかということです。

銀行へ預けておいたら利子がつくといっているが、利子とは何を意味するかです。タラントを預けられた者は、絶対に商売をしなければならないのです。

タラントを儲けるというのは、神自身の儲けにつながらなかったらだめです。一夕ラントを与えられたものは、地を掘ってそれを隠した。これは何をしたのかといいますと、現世に生れて、普通に生活していて、結婚して子供をつくり、育てて死んでいくという大多数の人の生き方をいうのです。大学を出て、教授になったり、学者、弁護士になったり、会社経営をして大金持ちになった人も同様です。現世だけに捉われて、現世の範囲内で生きていた人は、皆一夕ラントを地に埋めた人なのです。タラントを預けられた者は、それで商売をして、他のタラント(other talants)を儲けなければならない。他のとは、現世ではない、永遠の価値を持つものを儲けるためなのです。そうしなければ、人間に動物にはない特別の才能、能力性を与える必要がないのです。

人間がマイホームを造り、子供を産んで死んでいくだけなら、他の動物の生き方と何も変らない。わざわざタラントを与える必要はないのです。

タラントは宇宙の絶対者が持っている特別の能力性で、人間にタラントが与えられていることは、神のかたちのようにつくられた証拠になるのです(創世記12627)。タラントは宇宙で神だけが持っているすばらしい能力性です。これが人間に与えられたのは、それを使ってどうしてもしなければならない仕事があるからなのです。

神は一夕ラントを預けた人間に、おまえに預けたために、儲けもないし利子もつかないと怒っているのです。働いた本人はもちろんのこと、預けた主人の儲けにもなるような働き方でなければいけないのです。

宗教と真理が違うのはこの点です。宗教は本人が救われたらいいと考える。本人が天国へ行けばいいと思うのです。神が儲かろうが儲かるまいが関係がない。本人が死んでから天国へ行けばいいのです。

聖書が宗教ではないというのは、神が儲からなければいけないということです。本人よりも、神が儲かるか儲からないかの方が、大事なのです。これが一夕ラントの譬によく出ているのです。皆様自身はどうでもいい。神が儲かったらいい。神が儲からないような信仰ではだめなのです。

人が現世に生かされていることは、タラントを与えられていることになるのです。理性、良心、五官がタラントです。これを正しく用いれば、誰でも、永遠の真実、真理、永遠の生命の実物を見つけることができるのです。それを見つけたことが他のタラントを儲けたことになるのです。

現世に生きているのは、タラントを預けられているのであって、その人のものではないのです。しかし他のタラントを見つけたことによって、その人の誉になった。その人のお金になったのです。貸してもらった元手を返さなくてもいいだけではなくて、儲けたお金も自分のものになる。両方共自分のものになったのです。

人間が現世に生きていただけなら、神のタラントを預っていただけですから、その人の人生は無駄なことです。全く無価値です。ところが他のタラントを見つけたことによって、現世に生きてきたという記憶が神の栄光になってしまうのです。死なない命、永遠の生命を獲得したことによって、その恵みが子孫千代にまで及ぶのです。その上祖先千代にまで及ぶという大儲けをすることになるのです。

ルカによる福音書では、十の町を支配させるというすばらしい恵みを受けることができるとあります(1912〜c。十の町を支配するというのは、鳥や獣、家畜と魚、地に這うものを治めることになるのです(創世記126)。

私達が他のタラントを見つけることは、そのまま万物を治めることになるのです。これは神を儲けさせることになるのです。

お金を預った人が主人の志に添って商売をした結果、儲ったとすれば、本人の儲けになるが、預けた主人の儲けにもなるのです。主人の儲けが第三者にも及ぶからです。神の恵みはこのように働くのです。治め主を獲得したからです。

神は万物を治めさせるためにタラントを与えているのです。イエスの場合はどうだったのか。彼はタラントを見つけたのではないのです。生みたまえる一人子というのは、タラントではないのです。人間にはタラントを預けたが、イエスにはこの世を預けたのです。

一人子にはこの世の生殺与奮の権限を与えました。イエスが十字架につけられて殺されたが復活したことによって悪魔が敗北して、やがて来るべき千年間の神の国を儲けたのです。千年間の絶対平和、いわゆる千年王国を獲得したのです。イエス・キリストが死を破って復活したことによって、千年王国の根本が確定したのです。そこで皆様がイエスを信じることによって、この世ではない、別の国がつかまえられるのです。イエスは神の国を儲けた。そこで利子が起ってくるのです。なぜかといいますと、人間には、この世に生れる人と、千年王国に生れる人とがあるのです。千年王国で、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世記128)という神の預言が実現するのです。十の町を支配するというのは、鳥や獣、家畜と魚、地に這うものを治めることになるのです(創世記126)。

私達が他のタラントを見つけることは、そのまま万物を治めることになるのです。これは神を儲けさせることになるのです。

お金を預った人が主人の志に添って商売をした結果、儲ったとすれば、本人の儲けになるが、預けた主人の儲けにもなるのです。主人の儲けが第三者にも及ぶからです。

神の恵みはこのように働くのです。治め主を獲得したからです。神は万物を治めさせるためにタラントを与えているのです。

イエスの場合はどうだったのか。彼はタラントを見つけたのではないのです。生みたまえる一人子というのは、タラントではないのです。人間にはタラントを預けたが、イエスにはこの世を預けたのです。

一人子にはこの世の生殺与奮の権限を与えました。イエスが十字架につけられて殺されたが復活したことによって悪魔が敗北して、やがて来るべき千年間の神の国を儲けたのです。千年間の絶対平和、いわゆる千年王国を獲得したのです。イエス・キリストが死を破って復活したことによって、千年王国の根本が確定したのです。そこで皆様がイエスを信じることによって、この世ではない、別の国がつかまえられるのです。

現在の地球の人口は六十四億人くらいですが、これだけで人類はふうふういっているのです。もし百億人になったらとても食べていけないでしょう。それは人間が罪を犯した結果、地球が呪われた状態になっているからです。そのために地は人間のために、いばらとあざみを生じ、一生、苦しんで食物を得なければならないのです(創世記31718)。現在の地球には、地震、台風、洪水、噴火、津波、早魅、飢饉、疫病が頻発し人々を苦しめている。これは地球が呪われている証拠です。

やがて、天候、気候は一変し、驚くべき地球になるでしょう。これが千年王国です。その時地球の人口は三百億か四百億ぐらいになるのです。

アラビア半島だけでも五億ぐらいの人間はゆっくり住めるのです。年に何回も米や麦が収穫されることになるでしょう。種をまく人の後から収穫する人がついてくるということになるのです。サハラ砂漠やゴビ砂漠にサフランの花が咲き、耕作できるようになる。シベリアやツンドラ地帯にも人が住めるようになるでしょう。

かつて地球に生れてきた人の半数くらいの人が、王国で生れることになるでしょう。それくらい多いのです。あらゆる天災もないし、生活難もない。ストレスもない。一切の病気がなくなりますから、医者もいなくなるのです。

王国に生れる人は、老死があるといっても最低百歳でしょう。普通に生きていたら四百歳から五百歳になるでしょう。これが本当の世界平和です。病院と刑務所、大学と軍隊がない世界が実現するのです。

その時に生れた人は、今の人間の生き方とは全然違うのです。受験勉強も病気も、生活難もありません。ただ一つあるのは徹頭徹尾神を賛美することだけです。イエスがキリストであることが全世界の憲法の第一条になり、イエス・キリストの名を賛美することだけがあるのです。

現在の花と王国の花とでは、全然違います。神の栄光が森羅万象に現われるからです。「わたしは口を開いて誓を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」という預言が成就するのです。エホバの栄光が全地に満ちることが、文字通り実現するのです。

戦争がない。内乱もない。家庭内暴力、学校内暴力、職場内暴力もない。殺人、強盗、窃盗、傷害がない。ねたみも、憎しみも、苦しみ、悩み、矛盾が一切ないのです。ただ神を賛美することしかないのです。

聖書六十六巻の秘密が泉のように開かれるのです。神の言葉の中に隠されている驚くべき秘密が、毎日開かれるのです。毎日、毎日、神の栄光が新しくなる。人々は神の栄光に、毎日驚くでしょう。命の木の実の花が見事に開くのです。

神がいかに人を愛しているかが、森羅万象を通して、日ごと夜ごとに現われるでしょう。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの目につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ」(詩篇1914)。

神に対する賛美の声が、地球上に満ち満ちるのです。神が人をどれほど愛しているか、人の魂と神の栄光とが、どれほど接近しているかが分かるのです。

飲むにしても、食べるにしても、飲むとはどういうことか、食べるとはどういうことか、味わうとはどういうことかを、一つ一つ神によって教えられ、その意味深さ、重大さに、心から驚くでしょう。五官の働きが、無限に神を賛美していることがわかるでしょう。

千年王国の内容は、今のひがみきっている人間では、想像ができないでしょう。今の人間は愛をストレートに受け取ることができないのです。どれだけ愛されても、愛が分からないのです。ひがみきっているからです。

イエスが儲けた王国によって、大きな利子がついているのです。神が一人の人を王国に送ると、その人が一生神を賛美するからです。毎日神を賛美するのです。朝は朝のように、昼は昼のように、夜は夜のように神を賛美する。これは大きな利子です。

一人の人が一生神を賛美し続けたら、大きな利子になるのです。この利子が儲かるはずだったというのです。この世に送ったばかりに、その利子が儲からないと神が文句を言っているのです。

今の時代におまえを送ったために、神を賛美せずに一夕ラントを差し出した。それならおまえをこの世に送らずに、千年王国に送った方がよかったのにといっているのです。そうすれば利子がしっかりもうかったからです。タラントを地に埋めた人は神の恵みが全く及ばない暗黒の世界へ追い出され、神の能力、才能を無駄にしたという永遠の刑罰を受けるのです。そこで、無限に、しまったしまったと泣き叫び、歯がみをしてくやしがることになるのです。これが地獄の永遠の苦しみです。その苦しみは想像を絶するものになるのです。

王国になると、今の時代の悲しみ、苦しみはどういうものであったのか、人間の歴史がどれほど愚かであったかが明らかになるでしょう。

王国が来るまでに生れた人間にどういう責任があるかというと、与えられただけのタラントを用いて、他のタラントを儲けなければならないのです。絶対に見つけなければならないのです。

今の世界に生れた人間は、絶対に神を信じなければならない責任があるのです。これを教えない日本社会は、愚劣下等な社会です。命の本質を知らない、何のために生きているかという人生目的さえもない。ただタラントを土に埋めているのです。その上から、学問、常識という土をおおっている。命が全然見えないようにしているのです。学問によって人間の魂を弾圧し、強圧しているのです。

文明は人間の魂を押えつけて、拘束している。文明以外のことを考えてはいけない。文明以外のことを考える人には、月給を与えないと強迫しているのです。これがユダヤ主義です。

ユダヤ人は人間の魂を束縛しているのです。国際連合がある、国家がある、社会経済がある、科学、文明がある、社会がある、家庭がある、人間の伝統がある、人間どうしの規約がある、常識があるといって、人間の魂をがんじがらめに縛りあげているのです。これがユダヤ主義で、これを覆さなければいけないのです。

ユダヤ人はどうして間違えたのか。神の約束を、アブラハムの信仰によって信じないで、ヤコブの信仰で信じている。これがいけないのです。

ヤコブは神の約束を概念的につかまえていたが、現世で神に勝とうとした。これがいけないのです。ヤコブの子孫であることをやめて、アブラハムの子孫であることに切り替えなければいけない。

ヤボクの渡しでヤコブが神と組打ちをした時、ヤコブがどうしても負けないので、神はヤコブを殺してしまおうと考えた。ヤコブはアブラハムに契約を与えた三代目ですから、ヤコブを殺してし事つとユダヤ民族はとだえてしまうのです。しかたがないから神はヤコブに祝福を与えたのです。

神に勝つという意味のイスラエルという名前を与えたのです。神に涙をのましたのはヤコブです。それを彼らはイスラエルと誇っている。これは大間違いです。それで神は多くの預言者を送って、彼らの間違いを戒めたのです。

ヤコブの子孫であることが間違っているのです。アブラハムの末にならなければいけないのです。アブラハムの末というとアラブと兄弟になってややこしくなりますから、イサクの末といえばいいのです。兄貴のイシマエルはアラブ人の祖先ですが、弟のイサクの子孫であるといえばいいのです。

ヤコブのやり方は、財産を全部渡してしまうという神に気にいらないことばかりではないのですが、どこまでも自分の立場に立って神を見ていたのです。これがいけないのです。

タラントを自分のものにしていたら必ず神に叱られます。イスラエルはこれを続けているのです。自分達がそう考えるだけでなくて、その考えを世界に広めているのです。この考えを持ち続けていれば、必ず神に罰せられるのです。外の暗きに追い出されて歯ぎしりすることのないように、ユダヤ人の猛省を促したいのです。この世に生れてタラントを与えられているのは、自分自身で勝手に用いるためではない。他のタラント、永遠の生命を見つけるためであることを、よくよく考えて頂きたいのです。


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