6ルネッサンスの本質は何か

一体人間は何をしているのかということです。食って、寝て、子供を産んで死んでいく、これが人間なのかということです。

人類全体が大きく間違えてしまったのは、世界の歴史という観点からしますと、ルネッサンスが大きなポイントになっているのです。ルネッサンスは、現世に生きている人間を、過大に評価する感覚が、基本原理になっています。生活のあり方を、できるだけ豊かにしようと考えた、そのために、人間は完全にバカになったのです。ルネッサンスは、文明の本質を、破壊してしまったのです。

こういう考え方に、世界の学者は、大反対するでしょう。実は、ルネッサンスは、ユダヤ人の奥の手であって、ルネッサンスの思想が世界に流された結果、人間本来のあり方が、質的に崩壊してしまったのです。ほとんど崩壊に近い状態になってしまったといってもいいかもしれません。

文明が進歩すればするほど、人間が、だんだん悪質になるのです。現代文明が、人間の本質から考えて、どれほど悪いものであるかは、明らかなのです。

政治家も、宗教家も、ルネッサンスの悪さを指摘している人は、一人もいないのですが、これはどういうことでしょうか。ルネッサンスが、人間を殺しているのです。

これが、ユダヤ主義の文明なのです。霊魂の問題を、台無しにしてしまったのです。生死の問題を、分からなくしてしまったのです。

生か死かという問題が分からない状態で、文明をいくらつくってみても、何もならないのです。生死が分からないということは、命が分からないということなのです。命が分からないということは、まともに生きていないということになるのです。

人間全体に、そういう思想を注入したのが、ルネッサンスなのです。歴史の中で、人間を、堂々と、侮辱しているのです。それに、今の世界中の学者は、誰も気がついていないのです。学者は、ノーベル賞をもらって、喜んでいるのです。こういう人達に、命が分かるはずがないのです。学問とはどんなものでも、専門学ですが、これは、ルネッサンスによる思想を基本としているのです。その専門学がまちがっているのです。

人間が、この世に生きていることに、何の意味があるのでしょうか。人間は、この世に生きていることを、無批判にうのみにしているのです。人間が、この世に生きている状態で、幸福になるべきだと考えています。これがルネッサンスですが、この考え方が間違っているのです。この思想は嘘なのです。

一体、人間はなぜ死ぬのでしょうか。死ぬとは誰が死ぬのでしょうか。これが分かっていないのです。死ぬのは自分なのです。自分を征伐してしまえば、死ななくなるのです。他人が死ぬのは、一向に痛くも痺くもないのです。江戸時代の萄山人が作った狂歌ですが、「死ぬことは人のことだと思うたに、おれが死ぬとはこれはたまらん」というのがあります。死ぬというのは、自分という人格です。もっとはっきり言えば、自分という人格はすでに死んでいるのです。

自分というのは、ありもしない人格をあると勝手に思っているのです。旧約聖書のモーセの掟の第一戒は、神の他に何ものをも神としてはいけないといっていますが、これがユダヤ人に全然分かっていないのです。

ユダヤ人は、自分が生きていると思いこんでいるのです。これが、神とユダヤ教が激突している根本原因なのです。神は自ら私はイスラエルの神であるといっています。イスラエルと神が、思想的に正面衝突している原因は、自分があるかないかということなのです。人生の中で、一番大きな問題は自分というものです。これさえ分かれば、生死の問題は簡単にかたがつくのです。

自分というものは存在していないのです。人間は、自分が生まれたいと思って生まれた人はいないのです。これは、何回聞いても分からないことです。ヒットラーは、一つのことを自分以外の人間に、本当に理解させるためには、それを千回話さなければいけないといっているのです。ヒットラーは、極悪非道のことをした人間ですがこれだけは名言といえるのです。

自分がいるというのは嘘です。この嘘は人の性根にしみこんでいるのです。脊髄神経の中に巣をつくっている、脳髄から延髄、脊髄に自分という思いが巣をつくっているのです。これを退治するのです。

自分という人間は、生まれたいと思ったことがない、自分があることが、とんでもない不幸の原因になっているのです。この自分をなぜそんなにかわいがるのかということです。自己弁護、自己弁解、自分をかわいがるのが、偶像崇拝になるのです。これが分かりますと、生の問題、死の問題が解決するのです。

自分が生きていると考えている人は、必ず死にます。毎日毎日、自分を否定するのです。そうすると死なない人間になるのです。自分ではないものが見えてくるのです。

目で物を見ます。これは、一体自分の力でしょうか。心臓を動かしているのは、自分の力でしょうか。自分が確かにいるという証拠はないのです。自分を、完全に説明できないのです。人間は、説明できないことを、勝手に信じているのです。こういう間違いを、五蘊というのです。

照見五蘊皆空というのは、自分の気持ちからぬけ出してしまうことです。これを実行しますと、死ぬということが妄想だと分かるのです。

逆に言いますと、人間は、現在すでに死んでしまっているのです。自分が生きていると思っていることが、すでに死んでしまっているのです。息をひきとることによって、脳波の活動が停止することによって、死が決定的に実現するだけのことです。般若心経はそれを言いたいのです。般若ハラミタという言葉を、まじめに考えるなら、今生きていることが、実は死んでいることになるのです。

そこで私達は、現在死んでいるから、命とは何か、どこにあるかという勉強をする必要があるのです。もう、死ぬ心配をする必要はないのです。ただ、脳波が止まってしまいますと、死ぬことが決定的な事実になります。

現在、人間は精神的に死んでいる状態なのです。死んでいる状態ですけれども、死んでしまっているのではないのです。だから、今なら命がどこにあるかを、勉強できる可能性があるのです。これを、目の黒いうちにするのです。とにかく、心臓が動いているうちに、命を発見しなければならない責任があるのです。これをまじめに考えれば、死という問題は完全に解決します。

孔子は、生とか死は知らないと言っています。孔子は、生活のしかただけを説明しているのです。

人間は皆すでに死んでいるのです。自分が生きていると思っているからです。自分が生きているという、バカなことを考えるのは、死んでいる証拠なのです。自分とは何かを説明できないのに、自分が生きていると無条件に信じている。無条件に信じていることは、精神状態が盲になっているのです。精神状態が盲になっていることは、魂的には死んでいることになります。だから、これからもう死ぬ必要はないのです。

まず、死ぬ心配から開放されることです。そして、生きる方の心配をすることです。命はどこにあるか、どうしたら命の本物をつかまえられるかを考えればいいのです。

命を求めようとしている人は、すでに死の解決に一歩を踏み出している人なのです。死を本当に解決したいと思うなら、本当の命がどこにあるかを考えればいいのです。

死ぬとはどういうことか、肉体的に死ぬということは、他界するだけなのです。他界するというのは、現在の世界から去って、別の世界に移るということで、存在の形が変わるだけなのです。今、私達の心臓が動いている間に、この世を去ってからどうなるか、未来とはどういうものかを、つかまえておけばいいのです。今、私達の心臓が動いていますが、これは何であるのか、医学では分からないのです。医学は心臓が動いている状態の診断はします。しかし、なぜ動いているかという説明は、一切できません。ここに、専門学の浅薄さがあるのです。

自分が生きているという感覚は、すでに死んでいる思想ですが、この思想に人間は長い間、苦しめられてきたのです。人間にとって、自分という思想は、目をふさいだ目隠しなのです。見えない、分からない、難しいというのは、目隠しのためなのです。この目隠しをとってしまえば、すぐに見えるのです。命が分かるのです。このやり方をするのです。

イエスは、どのようにしたのか、彼は、自分に生きていなかったのです。彼は、自分というものをどのように征伐したのか、端的に言いますと、イエス以外にこれができた人は、一人もいないのです。孔子も失敗しています。法然も、親鸞も、日蓮も、道元も、皆失敗しているのです。皆死んでいるのです。

自分というものを、徹底的に解剖できた人は、日本には一人もいないのです。それほど、命をつかまえることは狭い門なのです。狭いけれど、命をつかまえる方法は、イエスという門を突破する以外にはないのです。

イエスは死を破ったのです。歴史的事実において、死を破ったのです。彼だけが、狭い門を通りこしてしまったのです。この事実をまじめに勉強する気持ちになれば、死を破る第一歩を踏み出したことになるのです。


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